鎌倉の進学塾 塾長が考える、受験と国語とその先のこと- Junya Nakamoto -
2019.02.28
中学受験と高校受験を終えて「受験」とはいったいなんなのだろう、ということを改めて考えました。受験=悪の文脈は多いかと思いますが、果たしてそうでしょうか。受験の先にあるもの、勉強という営みがもたらすものについて考えてみます。今後加筆・修正していくエントリになりそうですが、まずは勢いで第一稿を書くことにします。
受験をする以上は目標があります。それは、合格を果たすこと。でも、ただ合格をすれば良いだけであれば、受験に意味を見いだすことは難しいでしょう。勉強をしなくても合格できる学校はたくさんあります。
合格は目標であり目的ではありません。中学校について、高校についてよく調べて「その学校に行きたい」「ここに通わせたい」と強く思っている場合、合格を取ることは一つの目標となり得るでしょう。確かに素晴らしい学校はたくさんあるので、合格することに執心する保護者や本人の気持ちは痛いほど分かります。
でも、その想いが強くなり過ぎた時、合格=ゴールという誤った目的意識を持つことになりかねません。入試や合格は大きなターニングポイントではありますが、決してゴールではありません。受験勉強を通して学んだ知識や思考はもちろんのこと、身につけた学習方策、目標の立て方、時間の使い方、ツールの扱い、情報の収集、周囲の人との関わり方・頼り方など、良い受験勉強が出来ればそこで習得したことは、その後の人生においても十分に応用可能なものです。
学歴批判もあります。でも、受験勉強を通してこれらの力を的確に身につけられていたとして、その結果高い目標を超えられているとすれば、その学歴は評価すべきことではないでしょうか。そして、その力があれば、何より仕事=社会貢献を果たしてくれる「可能性が高まる」ように思います。
合格=ゴールではありません。合格をするために数多の力を培うことこそが受験勉強をする意義だと捉えています。
「うちの子スマホばっかりやっています」という保護者の悩みに対して、「スマホを上回る魅力的なことが周りにないし、それを大人が提示できていないからですよ」という、にべも無い回答がよくあります。その通り、言い得て妙だと思います。
環境次第、本人の気持ち次第でいくらでも子どもたちは「学び」を楽しむことが出来ます。子どもたちに学びの楽しさを伝えることが大人たちがやるべきことです。もちろん、それは受験に限りません。でも、受験を通してでも学びの楽しさを知ることが出来るのです。
受験勉強を終えたばかりの中学三年生にレポートを書いてもらいました。
そこかしこにある「楽しかった」の文字。そして、自ら工夫を重ねて学びを深めていく姿が見て取れます。必要性に駆られて受験勉強に没頭していったのだとは思いますが、これを書いたデジタルネイティブたちは、十分に英語・数学・国語・理科・社会の従来型とも言える勉強に楽しみを見出してくれていました。その楽しみの質はどこにあるのでしょうか。
それは「やれば出来るようになり褒めてもらえる」という単純な承認欲求だけではありません。効果的な学習方法を模索し、時間の使い方を考え、周囲と意見交換やディスカッションをしながら、時に争い、時に笑い、そうして過ごした受験勉強の期間は「自分を知る」きっかけにもなりました。それらの発見や成長している実感こそが充実を招いていたように感じます。また、手前味噌ですが良い先生との出会いも彼ら彼女らの楽しさを促していたと思います。
「勉強を楽しむなんてそんなアホな」と言いたいところでしょうが、嘘偽りなく生徒たちは楽しんでいました。勉強を楽しむことが出来たなら、もうそれらの力は自分のものになっています。あとは自分を磨く場所で、自分がやりたいことを実現するためにどんどん使っていくのみです。高校・大学では良い師に出会いどんどん専門性を深めていってほしいと思います。
「見つけること」。勉強という営みが、そして受験というマイルストーンが、子どもたちのこの感覚を磨いてくれるのではないでしょうか。何を、どう学ぶか、どのくらい時間をかけるのか、そしてどこへ向かうか、それを見つけることを本気の受験勉強は可能にします。
与えられたものをただこなしていくだけではこの力は身につきません。提示されているものの意味、タイミングの意図、その先への応用性などを少しずつでも考え、実践していくことでこの「見つけること」の力が伸びていきます。
そして、この課題発見型のデザイン思考の有用性については大人たちは理解しているはずです。受験勉強を通して子どもたちは、デザイン思考の”練習”をやり続けます。社会問題の解決や斬新なアイデアなど、独創的な力は簡単には育ちません。でも、身の回りや日々の生活、日々の学びの中にある課題を見つけてそれについて考えていく力は、受験勉強というある意味分かりやすい取り組みの中で鍛えることが出来るように思います。
型にはめた受験学習で、合格ロードを筋書いて、子どもたちの見つける力を奪っているのは大人たちです。
見つける機会や動機付けをたくさん作ってあげましょう。その気づきは一生モノの力になります。
入試に変わる何か、受験勉強に変わる何か、小・中・高生が本気になって学ぶきっかけとなる何かが生まれてくるまでは「受験=悪」とは言わせません。国が、各機関が何とかしようと躍起になって教育制度や教育のあり方を考えてきた結果、行き着いたのが大学入試改革です。むやみに批判するのではなく、改革によって生まれようとしている機運を敏感につかみ、子どもたちの才能を磨く絶好の機会とすべきです。
子どもたちが本気で学び、乗り越えていく価値のある入試問題がそこにあるなら、いつでも受験は意味があります。
そして、大人が考えていくべきことは、その場しのぎの対策を伝授することでも、合否で人生が決まると煽ることでもありません。まずは、自分に合った学びの方策を子どもたちが見つけられるような環境を作る。そして、その先の人生でも武器になり得る普遍的で応用可能な力を磨くきっかけを与えていく。難しいことですが、前向きに本気で学ぶ場所や機会が増えれば、自ずと子どもたちは自身の力を伸ばしていきます。
他にやりたいことがあるなら、それをどんどんやっていけばいい。でも、もし他にやりたいことがないなら、子どもたちを待つ次なるステージとの接点が「受験」である、子どもたちの「見つける力」を育むきっかけが「受験」である、というのは分かりやすくていいのではないでしょうか。
子どもたちの力を信じて、今出来ることと応援をこれからも最大限にやっていきたいと思います。“その先”は子どもたちが勝手に成長し、切り拓いてくれることでしょう。
想いが先走り具体性に欠ける部分が多々ありましたのがご容赦ください。また機を見て書き加えていく所存です。
第一稿:2019年2月27日