受験を超えて

鎌倉の進学塾 塾長が考える、受験と国語とその先のこと- Junya Nakamoto -


公立中学校の現状4「人間関係」

2017.05.15


今回は、公立中学校の人間関係について書いていきたいと思います。
公立中学校は、いろんな人が来るから心配かも…いじめがあるかも…先生が内申点で縛ってくるから高圧的かも…
このあたりの「かも」について明かしていきます。

公立中学校の現状(よくある懸念)

  1. 内申点
  2. ブラック部活
  3. 学習指導
  4. 人間関係
  5. 高校入試の功罪

多様多彩な同級生

公立中学校には、通学圏内の6割〜8割の同世代が通いますから、当然いろんな子が集まります。学力のみならず、生い立ちや家庭環境、真面目な子から「ワル」まで。学力優等生が不良に勉強を教えたり、オタク(失礼!)とオシャレ女子が共に調理実習をしたりするわけです。しかも、非常に感受性の強い10代前半の子たちが。ダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(受容性)ということを考えていくならば、公立中学校に勝る環境は存在しないのと言えるのではないでしょうか。上場企業の多様性なんて目ではありません。(完全に「グローバル」という要素だけが欠けていますが)

自分と異なる他者を受け入れ、自身のアイデンティティ(存在意義)を探り続けなくては、公立中学校という場に順応することはできません。かなり難易度は高いですが、「自分ってなんだろう」という自我が芽生え始めるこの時期に、大きく異なる他者と比べていくことで、自分というものを確立していくヒントが得られるように思います。自らの強みや特徴と向き合い、どう生きていくかをもがきながら探す場所です。

一方で、「キャラ」を演じなければいけない、つらさもあります。「お笑い」「優等生」「不思議ちゃん」「ファッションリーダー」「食いしん坊」などなど、自分が苦労して見つけたキャラはなかなか変えることができません。あの人みたいに正直に、あの人みたいにお洒落に、あの人みたいに自由に…。そんな思いがありながらも、一度染み付いてしまったキャラ設定を変えていくのはまたパワーがいることです。周囲の大人としては、「周りばかりを気にしない」「自分の気持ちに正直に」というアドバイスを優しくかつ親身になって送ってあげることが必要です。

「自分を見つける」ことに躍起になるのではなく、「異なる他者」の存在を知る場にしていく、と少し力を抜いて視野を広げていく三年間にすると良いのではないでしょうか。

そして、グローバルという要素が欠けていると書きましたが、公立中学校での人間関係はこの上なく「ローカル」です。ローカルであるがゆえに、特にそこでの人間関係は、日常と密接しており、縛られ、苦しむということもあるのかもしれません。しかし、このグローバル時代に、そこでのせせこましい人間関係にとらわれる必要は全くありませんし、もったいないと思います。子どもたちにとって、「今」が重要なのは間違いありませんが、簡単に抜け出せるし、たかだか三年間の話です。(人によっては永遠に思えるかもしれませんが、必ず終わりは来ます)
中学生の「今」の人間関係がつらくてつまらないものだとしたら、大事にしたい仲間だけを大事にし、中学卒業後に待っている圧倒的たくさんの素敵な出会いに想いを馳せておけば良いのです。

また、残念なことに当然ながらいじめはあります。それも、上述したように学力や家庭環境でのいじめがあるから最悪です。スマホを持っている、持っていないという低次元のいじめすら存在します。しかし、いじめはどこに行っても起こり得ます。これは、公立だから私立だからというものでもありません。「いじめ問題」については、また別の機会に寄稿したいと思います。

先生と生徒

公立中学校の生徒から見た先生は、「信頼を置ける大人」や「親しい大人」となることもあれば、「偉そうにしているだけの人」や「自分を評価する人」となることもあります。特に授業において生徒からの信頼や親しみは大きな要素となり、学級運営にも影響してきます。信頼が置けて教科指導力のある先生は「当たり」ですが、そうそうお目にかかれるものではありません。生徒に迎合する先生もいれば、権威を振りかざす先生もいます。ただ、元来子どもが嫌いで学校の先生になっている人はいるはずもなく、生徒が授業に対して学校生活に対して前向きに臨んでいれば、先生も応えようとするはずです。生徒が先生を育てることも大いにありますので、特に経験が浅い先生とがっちり組んで学級を作っていくクラスなどは、端から見ても応援したくなります。

また、先生の「値踏み」は生徒の特権であり、これは昔も今も変わりません。生徒間で先生についてあーだこーだ言うことは楽しいことでもありますし。ただ、以前よりも若干薄情になっている気配はありますね。先生への「尊敬度」は年を追うごとに薄れてきているような気がいたします。先生も人間です。他の先生や塾の先生と比較されて、気分が良いはずがありません。

一方、こちらも昔と変わらず今も公立中学校の先生は切り札を持っています。「内申」あるいは「評価」というファイナルウェポンです。これがある以上、(特に成績を気にする)生徒は表立って反抗はできませんし、自分の良さを最大限出していくというよりも、評価される自分を演じていかなければいけません。評価する先生が聖人君子であれば良いのですが、決してそんなことはありません。一生懸命演じた自分に対してストレスを感じている生徒もいるようです。したがって、先生と生徒の関係は、「評価する人、される人」になってしまう懸念が常に潜在しています。

他には、部活動の顧問と部員という関係も特殊な関係ですね。先生も意図してか意図せずしてかは分かりませんが、部での貢献度合いに応じて科目の成績に少なからぬ影響が出ることがあります。公平性を欠く関係性ともいえるでしょう。

相互に評価する、評価されるという関係だけでなく、親の次に多く接する「大人」である先生と共に授業や学校生活を作り上げていくという気持ちで関係を作っていくと、お互いに良い時間が過ごせるようになっていくでしょう。

スクールカースト

「スクールカースト」という言葉があります。教室内の生徒同士のランク付けを、インドのかの有名なカースト制度になぞらえて、いつからかそう呼ばれるようになりました。

「スクールカースト(または学校カースト)とは、現代の日本の学校空間において生徒の間に自然発生する人気の度合いを表す序列を、カースト制度のような身分制度になぞらえた表現。もともとアメリカで同種の現象が発生しており、それが日本でも確認できるのではないかということからインターネット上で「スクールカースト」という名称が定着した」(wikipediaより)

スクールカーストは果たして実在するのか、答えは残念ながらイエスです。それも、公立では私立中高一貫校よりもかなり高確率で発生します。真面目で一生懸命、自分の世界観を大事にしている人が、公立中の教室の中で中心となることはありません。それよりも「運動系部活動の中心選手」「流行に敏感な人」「何かとセンスがある」「面白いことを言って笑わせられる人」「他科目はともかく英語ができる(New!)」などがよりクラスの中で存在感を持ちます。

  • 自分の趣味や好きなことがクラスの中心人物と噛み合わない時、それをつまびらかにすることは得策ではありません。
  • 本当は言いたいことがあるのだけど、これを言うと「キャラじゃない」と言われそうな時は言わない方が無難です。
  • 体育祭の応援団長や生徒会長などに「3軍」が立候補することは有りえません。

すべての学校で、というわけではありませんが、残念ながらこれが多くの公立中学校の現状です。また、この傾向は私立中高一貫校の「共学校」でも少なからず見られます。大きく違う点としては、私立は「勉強ができる」ことの周囲の評価が高いことでしょうか。一方、私立の男子校ではこのスクールカーストがほとんど見られません。異性がいないことで、のびのびと自分を表現していけるのでしょう。

このスクールカーストを「社会性」と言ってしまえばそれまでですが、「個性を大切に」という大人の叫びは子どもたちの社会には届いていないようです。オタク(専門性と言い換えましょう笑)が価値を持ち始めた世の中ですが、公立中学校の中では、「専門性」を評価する土壌はまだまだ育っていないようです。

また、近年スクールカーストの上層に「英語ができる」が加わっていると感じています。これは、ローカルな環境でありながらも、時代の趨勢を子どもたちなりに肌で感じ、「英語ができる=イケてる」と判断しているからだと見受けています。

スクールカーストは、響きが強いので受け入れ難いですが、この雰囲気下で様々な相手との距離の取り方を自然と学んでいくことになります。前述した通り、「異なる他者」の存在を知る場としては面白い場所だと思います。異業種、立場や年齢の違い、それこそ外国人など、社会に出てから異質性と付き合っていくうえでも、どこかで参考にできる生き方を見つけられるかもしれません。もちろん、広い社会に飛び出してから「階層」を意識する必要なんてありません。どんどん自分を表現していくべきだと思います。

おわりに

高レベルの授業や多彩な学習機会、良い先生との出会いなどを考えると私立の方に優位性があるでしょう。スクールカーストは、公立中学校の恐るべき環境かとは思います。しかし、これからの時代を生き抜く強さや、それをはねのけた多様性の中で自己を発見していく強みは、公立中学校の三年間でこそ身につくことなのかもしれません。